96:「ヤマウチカメラ」 【銀座通り商店街】
・店と商店街 力注ぎ半世紀アーケード街の東口近く。「街のカメラ屋さん」として親しまれ、地域とともに歩んできた。昨年12月に50周年を迎え、節目を記念して「懐かしいカメラミュージアム」のコーナーを店内に準備中。戦後から現在まで、各年代で愛されたカメラ約100台を展示する予定だ。 店主は山内義則さん(74)。1963年に創業した。66年に静香さん(69)と結婚し、2人で苦楽をともにしてきた。カメラ機器の販売をはじめ、学校、事業所行事の出張撮影や証明写真のスタジオ撮影、デジカメのプリントなどを手掛けている。 創業時は高度経済成長期。趣味でカメラを始める人が増え、観光に、家族の記録写真にと、カメラやフィルムの売り上げは堅調な足取りで伸びていった。「現像のため暗室にこもることも多かった」と静香さん。 現在はデジカメが主流になり、「暗室にこもることはなくなったが、昔からのお客さんはデジカメのプリントでも通ってくれる」と、地域に根差した商売が息づいている。 藤岡町(現豊田市)で生まれ育った山内さんは、戦争で父親と兄を亡くした。家計を助けるため、中学を出て働くことに。当時、米国の写真雑誌「ライフ」を見た山内さんは、米国では生活の中心に車と家電製品、カメラがあることを知った。特に楽しそうな家族の記念写真に「カメラの将来は明るいのでは。いずれ日本もこうなる」と、この世界に飛び込んだ。 「大きな店では歯車の1つで終わってしまう」と考えた山内さん。「独立のためには小さな店で」と、豊田市内の小さなカメラ店で8年間、住み込みで修業した。月給500円で無休。何より辛かったのは朝の掃除の時間だった。「高校へ通う同級生らが店の前を通ってね。『頑張れよ』と、励ましの声をかけてくれるんですけど、15歳の少年にはこたえました」と修業時代を振り返る。 念願の店は最初、商店街の西口近く、現在のマイルポスト付近の小さな借家からスタートした。商売は時流の波にも乗り順調にいった。89年に現在地に移転、自前の店となった。 商店街全体の活動にも取り組んできた。理事長時代の2001年からは、瀬戸市内にキャンパスを持つ名古屋学院大学の学生や教員らと連携。一店逸品づくり運動を進め、06年には学生が経営するカフェと雑貨の店「マイルポスト」を空き店舗に開店させるなど、活性化事業を指揮してきた。こうした取り組みが注目を集め、07年には同商店街が中小企業庁の「がんばる商店街77選」に選ばれた。 また、山内さんは07年3月、内閣府の地域おこしのスペシャリスト「地域活性化伝道師」(まちづくり分野)にも任命された。以降、現在まで、中部〜西日本エリアの団体や自治体などの要請に基づいて派遣され、同商店街での取り組みを紹介するなどの活動も行っている。 山内さんは、「ハーモニカおじさん」の異名を持つ。土・日曜日には店の前に立ち、「人生の応援歌」という「ああ上野駅」や「青い山脈」など、懐メロを吹いている。老人福祉施設に慰問演奏に出掛けることもある。 「ハーモニカの音色を聴くと、戦死した兄が吹いていたのを思い出す」と山内さん。自身も中学生の時、アルバイトで貯めたお金でハーモニカを買い、兄を思いながら学校への道すがらに吹いていたという。「ずっと頭の片隅にあった」といい、5年半前、旅先でハーモニカを見かけて購入したのが、再び始めるきっかけに。「体に少し余裕が出てきたころで、地域のために少しでも役立てば」と経緯を話す。 計画を進行中のカメラミュージアムでは、それぞれのカメラに解説書を添えて展示する予定。展示するカメラは、買い替えや故障などで客から譲り受けたものが大半という。山内さんは「写真は時代を映す鏡。カメラにもそれぞれの思いがあり、処分するのは忍びなかった」と語り、「カメラで商売をさせてもらった以上、敬意を払いながらその歴史を残していくこともカメラ屋の役割では」と張り切っている。 【あゆみ】 【メモ】 番組に対するご意見・ご感想をぜひお聞かせください。 |
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