49:「ドリームワン イワハシ」 【效範西部商店街】
・何にでも対応 まちの電器店家族経営でアットホームなまちの電器屋さん。店内には長いテーブルといすが置かれ、休憩所として利用することもできる。創業者の岩橋忍さん(74)、妻の初枝さん(71)がいつでもお茶とお菓子を出し、笑顔で迎えてくれる。 市内の米穀店で8年間修業し、1963(昭和38)年、米穀店として開いたのが始まり。「お客さんの求めるものは何でも揃えよう」と、米以外の食料品や調味料なども扱った。4年後には灯油、さらに3年後にはクリーニングの取り次ぎ、家電の販売と、商売の幅を広げてよろずや的な総合商店に。72(昭和47)年には大手電器メーカーの看板を掲げ、75(昭和50)年には家電を柱にする店になった。 現在は家電製品のほか、太陽光発電・オール電化のリフォーム工事も柱のひとつに掲げる。岩橋さんは創業時から「この店で買ってよかった」、そう言ってもらえる店づくりを一番の目標にしてきた。10年前に、長男夫婦の大輔さん(44)、広美さん(45)に代表を交代したが、「今もこの目標は変わっていない」と岩橋さん。 家電店への転身は、メーカーの製品を扱う系列特約店への加盟を呼び掛ける説明会がきっかけ。岩橋さんによると市内の米穀店を集めて行われたそうで、話を聞き、「家電は米と異なり、メーカーがテレビCMなどで顧客に周知徹底を図ってくれる。販売店は売ることだけに専念できるのではないか」と考え転身を決めた。 昭和50年代は家電市場が拡大する時代。昭和48年に第1次オイルショック、54年には第2次オイルショックと、エネルギー危機が叫ばれる一方、「家電は物価の優等生」とされ価格が安定して割安感があった。このため、全国的にルームクーラーやビデオなどの普及率が高まり、新登場したシステムコンポやラジカセが売れ始めた。「うまく時代の流れに乗れたのかな」と岩橋さんは振り返る。 家電店の看板を掲げた当時は、各地区をくまなくまわる出張・訪問販売を週に2回は行っていた。「平たく言えば御用聞き商法で、地域密着の基礎づくり」と岩橋さん。顧客との関係が密になると住まいに関する様々な相談を受けるようになる。「そうしたニーズに応えて各種リフォームも手掛けるようになった」。 岩橋さんの趣味は多彩だ。18歳から現在まで、7・5キロのダンベルを10分間で266回(2000キロになるまで)上げる筋トレを1日置きに続けている。早朝から約7・5キロのランニングは毎日欠かさず、30年前からカラオケ教室で歌の指導も。6年前からはウクレレとゴスペルを習い、寝る前には数字パズルの数独も楽しんでいる。「何事も勉強。前向きに挑戦です」と、岩橋さん。このチャレンジ精神が商売の姿勢に表れている。 【あゆみ】 【メモ】 番組に対するご意見・ご感想をぜひお聞かせください。 |
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